朝、目が覚めると、まず聞こえるのは柔らかな「ニャー」という声だ。枕元で、ふわふわの毛並みを持つ猫が、まるで「おはよう」とでも言うように私たちを見つめている。まだ半分眠い目をこすりながら、猫の頭を撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らす音が部屋に響く。この瞬間、人生にオチなんて必要ないのかもしれないと思う。
猫との暮らしは、物語の起承転結を求める人間の期待を軽やかに裏切る。猫は計画を立てないし、予定表も持たない。朝、突然私たちの膝に飛び乗ってきて、仕事の書類をぐしゃぐしゃにしたり、夜中に家中を走り回って「何事か」と飛び起きるような日々が続く。それでも、なぜか怒る気にはなれない。猫の自由奔放さは、私たちの人生に予測不能なリズムを刻む。それはまるで、脚本のない即興劇のようだ。
私たちがルルと暮らし始めたのは、1年半前、ふとしたきっかけだった。妻と一緒にペットショップで子猫を購入したなだ。その子猫は、白色の毛に青の瞳を持つ小さな生き物で、最初は怯えたようにソファの下に隠れていた。名前は「ルル」と名付けた。なんとなく響きが将来のプリンセス を約束してくれるような気がしたから。
猫との生活には、明確な目的やゴールがない。仕事で疲れて帰宅すると、ルルは玄関で待っていて、まるで「おかえり」とでも言うように足元にすり寄ってくる。その瞬間、今日の会議で失敗したことや、締め切りに追われたストレスが、ふっと軽くなる。ルルには私たちの悩みなんて関係ない。ただ、そこにいるだけでいいのだ。そして、私たちもまた、ルルにとって「そこにいるだけでいい」存在でいたいと思う。
よく、人生には「オチ」が必要だと言われる。物語には結末が、努力には成果が、恋にはハッピーエンドが求められる。でも、猫と過ごす時間にはそんなものがない。ルルが窓辺で外を眺めている姿を見ていると、ただその瞬間が美しいだけで十分だと思える。彼女がカーテンをよじ登って落ちたり、ボール遊びで興奮しすぎてソファに突っ込んだりする姿は、笑えるけど「オチ」と呼ぶにはあまりにも日常的だ。それでも、その一つ一つが私たちの心に小さな足跡を残す。
ある夜、ルルが妻や私たちの胸の上で寝息を立てていたとき、ふと思った。人生にオチがないのは、実は自由なことなのではないか。結末を決めつけなくていい。成功も失敗も、ただの通過点でしかない。ルルはそんなことを教えてくれる。彼女は失敗を悔やまないし、未来を心配しない。ただ、今を生きている。その姿に、私たちは少しずつ影響されてきた。計画通りにいかない日も、ルルがそばにいれば「まぁ、いいか」と思えるようになった。
猫と暮らす人生は、派手なドラマや感動的なフィナーレを約束しない。でも、その代わりに、毎日の小さな幸せをくれる。朝のゴロゴロ音、夜の静かな寄り添い、ふとした瞬間のいたずらっぽい目。ルルとの時間は、物語の終わりを必要としない連続性の中で、私たちを穏やかに満たしてくれる。
最近、ルルは少し太ってきた。獣医に「ダイエットが必要」と言われたけど、彼女はそんなことお構いなしに、今日も私たちの膝で丸くなる。この瞬間、私は思う。人生にオチがなくても、ルルがいてくれるなら、それで十分だ。彼女の温もりと、私たちの笑顔が、この物語の全てなのかもしれない。
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